2011年1月16日日曜日

Bye bye to my past

あるシンクロニシティーがあったので、今日はこの話を書くことにしました

2年前に、日本に帰った時、実家にあった写真や年賀状や物を大処分しました。
1年に1度も見られることなく、押し入れの奥の箱の中でただじっとたたずんでいる過去の私。

風水でも、1年以上使わないものや見ない物は、もう今の自分にとって必要がないので、どんどん手放した方がよいとあった。

それもそうだと思ったし、誤解を恐れずにいえば、過去と今を繋ぐ物質的な存在は、わたしにとってあまり大切ではない。
心に残るのは、出来事の詳細よりも、
楽しかった、笑った、喜んだ、悔しかった、傷ついた など、
どんな思いを体験したかっていう”感覚”だと思うし、そういう感覚は、そうそう忘れてしまうものではない。

しかし、想い出ってやつは、知らない間に執着にカタチを変えてしまってることがある。
物質的なモノが残っている余計に。
そうなっちゃう、もう手放す時期がきてるということ。

私は過去に生きていない、今に生きている。
だから、そろそろ箱の中から、私の過去を解き放ってもいいんじゃないかな?

そういう風に思ったのがきっかけでした。

実際やってみると、何百とある写真や手紙ひとつひとつを手にとり、記憶のフタをあけて過去を再体験するのは、非常にエネルギー的に骨の折れる作業でした。

物心ついたときから20代前半を振り返ったので、いろんな種類の想いがめまぐるしく交差した。
心の方ががついていけなくなりそうなほど!

懐かしくて温かくなるものもあれば、苦笑いしたくなる想い出もあった。
苦しくて直視したくないものもあった。

懐かしかったなー。
プリントゴッコで印刷された年賀状。
あー覚えてる。1月2日から郵便受けにはりついて、今年は30枚きた!って喜んで。
好きな人からの年賀状 そっけない言葉 でも嬉しかったな。
授業中に回した手紙。今読み返すと、先生の目を盗んで書いた割に中味がなかったり、逆にものすごくシリアスだったり。

写真や手紙を手にした時のよろこびは、全部ほんものだった。
そう、あの時には、確かに、写真も手紙も物もひとつひとつ命が吹き込まれていた。

そう思い返しながら、ひとつひとつ手にとって、バイバイした。
あのときがあったから、わたしここにいるね。
一緒に体験してくれたみなさん、ありがとうございます!って。

ほんとうに、ありがとうございます

って心から思った。
これやったら、そう思わずにいられないよ。

まるまる一日かかって、「これは手放せない」と思うわずかな物を残して、過去の私を解き放った。
終わった後はほんとうにヘロヘロになった。ものすごく気疲れした。
傍らでみていた私の母が、おわったあとに”よかったね!スッキリしたね”と言ってくれた。

処分した翌日。
すごくすごく身が軽くなった! 
すごく楽に「今」にいれるようになった。

例えて言うなら、
上にいきたいけど、重しがついていて飛んでいけない風船あるでしょう?
風船は、上に行こうとするのが自然なことですよね。
でも、その風船、自分の目に届くところにおいておきたい。だから飛べないように重しをしてる。
そのうち、飛べない風船が、いつも視界の隅にチラチラするようになる。なんか先にすすめない。
もう十分楽しませてもらった。十分向き合った。
もういいよね。ってその重しを、自分で取った。
そういう感じに似てる。

この話をゆうじにしたら、「写真や手紙を処分するなんて信じられない。理解できない」と言われた。
その気持ちもよくわかる。

だからみんなにオススメできるわけじゃないかもしれないけど、でもやっぱり本音はオススメしたい。
まだ、捨てられないものは、捨てられないようになっているし、それもいつか手放していいやって思えるときがくるから。

自宅が全焼した歌手のUAさんのことば。

自分で棄てれない、
気付いてすらない、
三次元的な執着は、
いつか全員強制的に棄てさせられる。
自ら棄てるより、棄てさせられるほうがもちろんキツい。

自分の意志で棄てる方がいいよね。

わたしはあの作業のおかげでより「今」を生きれている気がします。
自分の中味の大掃除!気持よかった~!

もし、これを読んでいるわたしの友達のみなさんで、整理してみようかなーと思う人がいれば、わたしの過去の写真や手紙は、遠慮なく捨ててください。
過去のあの時、その写真や手紙に託した想い出や感覚が価値のあることだったのなら、それだけで幸せです☆

でもね、手紙は大好きなんです。
知らない間に受信トレイに埋もれてしまうメールより、直筆の手紙が好き!

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