カナダに来てから、10冊のノートを埋めた。
きれいな風景、ひらめいたこと、詩、確信したこと、こころのささやき。
思いつくままなんでも書き留めた。
あるときは、雨のしずくの中にみえた虹の様子を書いてみたり、またあるときは消え入りそうなささやきをひろって言葉にした。
文章にすることは、わたしにとってセルフヒーリングみたいなものだった。
だけど、最近は文章を書かなくなった。
正確にいうと、書けなくなった。
��1冊目のノートを最後に開いたのはいつだろう。
兆候は、妊娠中にじわりじわりとではじめていた。
母になって、以前ははっきりしていたことが、かげろうになった。
雨のしずくは、雨のしずくでしかなくなった。
いつ、どこで、どういうふうにかわからないけれど、
気づいた時には、大事なものがなくなっていた。
そして、母親になった。
母親になるまえは、「もし今死んでしまっても、それはそれで運命だ」と思ってた。
母になった今は、「もし今死んでも、それが運命だから」なんて言えなくなった。
ゆうじと太陽に対して、「このハグがもし最後だったら」とか「もしも明日がなかったら」とか考えてしまう。それはすごくつらくて、悲しくて痛いことです。
文章がへたくそになっても、目に映る景色がかわっても、なにより家族との時間が楽しいって思う今がある。
「夢」より「暮らし」にフォーカスするようになって、
気づいた時には、大事なものがふえていた。
母になるまえの、森や自然や世界と繋がっている感覚
母になったあとの、家族と繋がっている感覚
春には春のよさがあり、冬には冬のよさがあるように、
どちらも確かで強い感覚で、そして、どちらも<おおきなひとつ>と繋がっている。
でも、なんだかうまく2つを結べなくて、もどかしい。
例えば、満月はいつだったかわからないまま通り過ぎてしまうように。
��おおきなひとつ>は、失ったり、得たりすることで全体をみせてくれてるのかなと思うことがある。
でも、ほんとうは、失ったり得たりしているのではなくて、その時々の大事なことが、よおく見えるように、前に経験したことは影を薄めているだけなんだろうな。
過去が恋しくなったり、未来を追いそうにもなるけど、
「今」を生きて、「今の状態や状況」を受け入れて、その時々のきらめきを拾ってゆければ、それぞれの<ちいさなひとつ>が<おおきなひとつ>へとどんどん繋がっていくんだよね。
春夏秋冬、その時々で歩いている道は違うけれど、<おおきなひとつ>のことをいつも思いだしていたい。
そのときどきに出会う景色や出会う人に、ありがとうを込めていたいなと思います。
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空気や水の中を漂っているような存在だった娘時代から大地に足を着け腕や乳房に子をぶら下げたどっしりとした母になったとき、私の心は揺れました。良く解らない不安や焦り。そんな時もらった言葉“四季がめぐるように人生にも季節があるものです。今貴女の人生は娘という季節から母という季節になったのですよ。四季の移ろいを楽しむように人生のそれぞれの季節を楽しんで”完全にではないけれど吹っ切れて、涙あり笑いありの母という季節を堪能させてもらいました。ノートに書けなくなった想いはこれからは子供達の心に刻まれていくんじゃないかしら。
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Aqua さん
はじめまして、コメントありがとうございます!
素敵なメッセージ、心にきゅーんときました。
まさに、娘から母にかわる境目で心が揺れています。
aquaさんはきっと素敵なお母さんなのでしょうね。
お母さんの先輩の言葉、心強く気持よく響いています。
書けなくなった想い、子供達に刻んでいけるといいな。
素敵なメッセージありがとうございました。