ちょうど、安住さんのラジオの中で、同じテーマの放送を聴いたばかりだったので、タイムリーだなーなんて思ってました。
ラジオでもお友達の日記でも、どうやら35歳をすぎたあたりから、ものごとを鮮明に覚えたり、記憶することが以前ほど容易ではなくなり、どうでもいいことは覚えているのに、肝心なことを忘れてしまい日常生活や仕事に差し支えるようになってくる。
これは多くの人にあてはまる現象らしい。とのことでした。
わたしの周りの年上の方々も”記憶力が怪しい”と口々に言い始めるようになりましたね。
今年36になるうちのゆうじさんも、年々、記憶障害がひどくなり、わりと記憶力のよい私からすると、”Are you kidding??”としか思えないおとぼけに、日々、驚嘆しています。
どんなもんかかいつまんでいうと、
・住所、電話番号、郵便番号、誕生日など全く覚えてない。(覚える気もない)
・7割の確率で、車を運転しながら、行き先を忘れる。
・過去にした話を覚えてないので、同じ話を何回もしても、毎回新鮮なリアクションを返してくれる。
・究極は、わたしと一緒に出かけていることを忘れ、私を忘れる。しかも一度ではない!
でもね、今日例のラジオの続編でとてもいいことを聞き、あーなるほどと納得したことがあるのでご紹介します。
”やっと大人の域にはいりましたね、おめでとう。
忘れてしまったことを素直に謝り、一歩ひいて、自分より若い人に補ってもらう。若い人に、助けてもらうこと、受け入れられますか?
年を重ねて柔和になるために、かみさまは”忘れる”ことを許してくださったのだと思うことがあります。
それが平均寿命80年を生きる秘訣かと思います。”
んん。
どうですか?
わたしは記憶力が良いほうで、数種類のクレジットカードの番号とか、パスワードとか紙面に残したくないことは頭の中に入ってます。
それ故に、ゆうじくんみたいに、ドボッと”忘れる”ことができないので、彼の行動にイライラ~としてしまう場面がたくさんあります。
ゆうじは、基本的に楽観的なので、忘れちゃって人に「おいおいしっかりしろよ~、ボケすぎだぞ~」と言われても、「あっはっはー」で終わります。
私が何度イライラしても、「まあまあ」となだめられ、またそのうち「うちの住所なんだっけ~?」という電話が掛かってくる。
わたしだったら、”あらいやだ。なんで忘れちゃったんだろ~”なんて思うだろうな。
でも確かに、あんまり事細かに覚えてると、怒ることも増えて、息苦しくなりそう。
忘れりゃいいってもんじゃないけど、”あっはっはー、ごめんごめん”の方が、人生は楽しく生きられそうだ。
それに、何度同じ話ししても、そのたび笑ってくれるんだから、「こないだも同じ話したよ~忘れたの?」なんて言わないで、ありがたいと思った方がいいよね。にしても、もう少し覚える努力はしてほしいところだけど。
そんなんで、仕事に差し支えてないのか私には知る由がないけれど、多分スタッフに支えられてなんとかやってるんだろう。
「ゆうじさん危なっかしいから、俺/私がちゃんとやんなきゃ」なんつって。
ゆうじに限らず、自分の母親とか、年上の方のそういう危うさやユルさを体感してると、確かに”わたしがしっかりしよう”という責任感が湧いてくることある。
ほんとは、「この人しっかりしてないなー」じゃなくて、「しっかりしてないと思わせて、責任感を育ててくれている。」だけなのかもしれない。
それはそれで、ギフトですね。
ゆうじも、わたしがいるから心おきなく忘れられるのだろうし、そういう彼を、「あたしが覚えてるからいいじゃない~」なんつって受け止めてあげる心の寛さがあったらいいなと思うけれど、「あたしはアンタの秘書じゃない!」などと即答してしまうあたり、若さの証拠、青いケツ、もしくは鬼嫁ということになるんでしょうな。(わたしも30代だけど、30代はまだまだ若いよねえ~。)
記憶力と寛大さは反比例してるのかもしれないですね。
わたしが”忘れる”ことを許される年になったら、寛大になれる日がくるのかな~。
その時には、そうかそうか~わたしも大人になったな~なんて、あっはっはーと笑おうと思う。
年を重ねながら、ぶつかったり、磨き合ったりして、角がそげおちてまあるくなって、拘らなくなって、どんどん手放しちゃって、笑って笑って、やがて土に還るように、そういう風に生きていけたら素敵だな。
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