2011年8月18日木曜日

かわりゆく自然環境 意識のスイッチ

この町で一番古いモーテルのロゴに、スコーミッシュの象徴であるハクトウワシと一緒に、クジラとイルカの絵が描かれている。

ほんの50年ほど前は、この町の入江にも、クジラとイルカがやってきたそうだ。
ブリタニアビーチで金や銀がとれるようになり、鉱物やケミカルが入った水が海に垂れ流しになり、彼らは入江から姿を消した。鉱山も今は閉鎖された。

去年の冬はラニーニャで、このあたりはものすごく雪が降った。
ラニーニャ現象の原因は解明されていないようだけど、彼女がもたらした影響は、この夏にもしっかり及んでいる。
今年は冷夏。
気温が30度を越えた日は一度もなかったように思う。
標高1500m以上はまだ冬の世界。
それによって、動物達が食べ物を探して、自分のテリトリーより下のエリアまでおりてきている。
高山に住むマーモット(巨大なハムスターみたいなの)は、下におりてくることでコヨーテの格好の餌食になっているそうだ。
そして、熊牧場と揶揄されるほど、ウィスラーの町にはたくさんの熊がおりてきている。
人間サイドの話で言えば、野菜や果物の収穫が遅れている。

この秋も、ラニーニャが戻ってくると言われてます。
来年も豪雪で冷夏なのかな。

人間は鈍感だから、海がちょっと汚れても、気候がおかしくても、「そんなもんかあ」でいられるし、知恵を使って、自分の暮らしを変えることなく、やりすごすことができる。

でも、動物達は敏感。
何かがおかしくなればすぐに行動にあらわれる。
しらないあいだに姿を消し、数を減らしていく。
それは、あらゆる生態系に影響がでているっていうメッセージ。
失ったものを取り返そうとしてもむずかしくなる。

彼らはメッセンジャーでもある。
彼らを通して届く自然からのちいさなささやきに声が聞こえる耳をもっていたい。
全ては繋がっているから。

話はフクシマに飛びます。
最近、放射能汚染のニュースが減ってきていたり、その話題自体が減っているなんて話を聞きます。
��わたしの周りの友人達は全くそんなことないので、海外にいると日本の風潮がわからないのだけど。)

地震やラニーニャといった人間にコントロールできないことは、受け止めるしかない。

でも人間が起こしちゃったことに、知らんぷりや無関心でいるのはどうかなあと思う。
もちろん諦めの気持ちや、じゃあどうすりゃいいのさ!っていう気持ちが起こってしまうのもわかる。わたしも絶えずその葛藤を持っているし。

昨日、携帯屋の若いお兄ちゃんと話してたら、フクシマの話題になった。
彼は「日本では、汚染瓦礫を撤去するために、中年の人たちがボランティアで活動していると聞いたよ。自分の身体を犠牲にして子供を守る。アメリカではそんなこと起こらないとおもう」とだいぶ大げさに(アメリカ人だって絶対やると思うし)褒めてくれた。

そして、「今回の悲惨なできごとで、世界中の人たちが核エネルギーや自分たちの暮らしについて考え直す機会になったと思う。それはよかったことだよ。」と言ってくれた。
フクシマの記事はよく読んでいるそうだ。

フクシマ話になると、みなわたし(日本人)には遠慮がちに話す。
同情と心配の目をもって。
ほんとうは、「日本の電力政策のせいで、こっちまでとばっちりくってんだぞ!」っていう怒りの気持ちもあると思うけれど。

携帯屋の兄ちゃんしかり、カナディアンとフクシマの話をするたび、申し訳ないって思うようになった。
私の祖国は、みんなの地球を汚してしまったんだな。。。って。

BC州でも放射能の値が増えた。
Straightというバンクーバーの新聞に、日本の放射能汚染がBCにも押し寄せているという記事がデカデカとのった。

胸が痛い。
海外にいると、フクシマが地球にもたらしている影響 という目でもこの汚染問題を考えるようになる。
世界の中の日本人としては、フクシマ問題は国の政策だから、そのときまだ小さかったわたしには関係ない!とはとても言えない。

だからこそ、日本人がどうにかするしかないんだよね。
答えなんて簡単にはわからなくとも、ひとりひとりが、もがいて悩んで、この問題に対して向き合っていかないといけないんだね。
こどものため、家族のため、世界のためにも。地球のため、そして自分のためにも。
この時代に生まれた日本人の宿命として。

ニュースでは伝えないような記事を常にupしてくれる友人に感謝しています。
みんなで考えようという意味で、わたしもそういう話はどんどん広げていきたいと思う。

「知る」ことは次のステップにつながるもんね。

今の日本人のテーマは、国や企業によっかかりすぎていた過去を改め、考え、選んで、自分の足で立つこと、「個人が自立すること」な気がするな。

放射能汚染も、自然が消えていることも、愛も、命のサイクルも、よおおくみてないと、目にはみえないし、聞こえない。
目に見えないことってやっぱり大事。
しかもその声はちいさい。
そこに気づくには、聞く意志をもってチューニングするしかない。雑音も多いからね。

その上で、起こってしまった/起こりうる汚染や天候の変化や災害はうけとめて、過剰に恐れずに(人間だって自然治癒能力高いから!)、残された自然と動物と共存していかなくちゃいけないなと思ってます。

スコーミッシュの海では、浄化プロジェクトがはじまってます。
私が死ぬ頃には、この町にもまたクジラやイルカが戻り、子供達の無邪気な笑顔が溢れる世の中になっていることを願って。

0 件のコメント:

コメントを投稿