2020年3月25日水曜日

先週の金曜日までは学校もあった子ども達。
少しづつCOVID19の気配を感じてはいたけれど、まだ普通の金曜日だった。

それからの1週間は、
今までの当たり前がどんどん当たり前でなくなっていく大きな変化の連続で、
基本的には楽観的な性格のわたしも、日が立つに連れ不安や怖れに足元をすくわれそうになる。

3月24日の今日は、BC州は自主的なロックダウン状態。

今年の流行語大賞は間違いなく「Social Distancing」
自宅で過ごし、他人とは2m以上の距離を空けること。
今まで聞いたこともなかった言葉が、すっかり日常を支配している。

私達も先週の土曜日から家に引きこもり。
10日もずっと家にいるなんてこの家に引越してから初めて。
うちの父ちゃんは、先週は電話に耳と口が糊でくっついてしまったのではないかと言うほど、シリアスな電話をかけまくっている。

子供には、今だけだよ。また普通に戻るからね、と口では言いながら、
「今だけ」がどれくらいなのか誰もわからない。

子供は割に状況を理解して、テレビの時間は増えちゃってるけれど、でもスケージュールを作ってそれなりに規則正しく生活しているかな。

そんな中、おととい、息子が父ちゃんとボードゲームをしたいと言った。
父ちゃんも、電話と手と口がくっついているような日々で、
あんまり子供と関わってやれなかったので、「いいよ!」と言って、
さあ、いまやろうと思ったタイミングで、また仕事の大切な電話がかかってきた。

「この電話、でなくちゃだわ。ちょっと待ってな。」

息子は、その電話が少なくとも10分以上かかることはわかっていた。

電話と一緒に外に出た父ちゃんの姿を見つめながら、
まだかな、まだかな、と待つ息子。

案の定、10分、20分と時間が過ぎた時に、
窓の外を見つめる息子の背中が静かに揺れていることに気づいた。

声をかけると、声を殺して泣いている。

わかるよ。

息子は父ちゃんに待たされていることに対して泣いているのではない。

なんだかわけわからないまま、楽しみだった春休みが自宅に引きこもることになり、
近所の友だちが道路越しに見えるのに遊べない、
どこにも行かずに家か家の周りにいて、
父ちゃんと母ちゃんが絶えずシリアスな話をしている。

その中でもなんとか気持ちを保っていたけど、不安だったんだよね。

息子よ、私もずっと泣きたかった。
でも、毎日に追いついていくのが精一杯で、泣くタイミングがわからなかった。

泣くなら今だ!

だから、2人で泣いた。

ちょうど夕暮れ時で、海と空がとってもきれいだった。
頭のどっかで、泣くにはうってつけの景色だわ。と思いながら泣いた。

急に訪れた、ガラッと変わってしまった毎日に、
「頑張るぞ!」という気持ちだけではやっていけないことは、
きっとみんな同じだと思う。

だから、泣けるタイミングがあったら、一度思う存分泣きましょう。
1回でも2回でも。

多分、みなさんと同じ様に、私もいろんなことを考えてます。

地球がおやすみすることができてよかった、

こういう形だけど地球人が一丸となる世界を見せてもらってるな、

お金に依存する生活だったな、

家にずっと居ても割とあっという間に時間がすぎるのに、
今までどんだけ忙しかったんだ、

耐えられるのかな?、耐えるしかないんだな、

生まれ変わるなら人間界の面倒に巻き込まれない猫がいいな(笑)、とか

そして、

失ってもいいものと、失いたくないものが何なのか。
私にその覚悟はあるのかな?って。

毎日夢をみているようだから、まあ頭もちゃんと働いてないんだけれどね。

今は「なんとかなるっしょ」という気持ちの隙間に落ちている闇の扱い方がわからないけれど、これは実は、未来の人類や地球にとって光なのかもしれない。
それもこれも、子どもたちが大きくなった時、「あー大変だった!」と笑ってられる日が来るね。

BC州のコロナ対策がはじまって短いのになんだけど、
今のうちに一度、ずーんと落っこちといて、
あと数日は、また這い上がってくるために、心の元気をためようと思います。
きっかけをくれた息子に感謝です。

息子の涙を思い出すとまた泣けちゃうわ!






猫は気楽でいいよなあ〜
猫は気楽でいいよなあ〜

 

2020年3月6日金曜日

瞑想の種類

去年の秋に、私の好きなヨガの先生のリトリートが近所であったので行ってきた。

それまであまりどんな内容のリトリートかわかってなかったのだけれど、
蓋を開けてみたら禅ベースのプログラムだった。

Sea to skyの森の奥での3泊4日リトリートのプログラム。
内容は、1日4回、最低でも計4時間くらいが座禅の時間で、
座禅と座禅の間はそれぞれ1時間半くらいのヨガを行う。
夕飯後から翌日のランチ終了までは、サイレントタイムと言って、
他人と会話してはいけない。

私は今まで、瞑想というと、割と祈りに近いかたちの瞑想を行ってきた。
もともとはシュティカ(ファーストネーションが守ってきた土地)に出会った時に、
シュティカを守っている長老の祈りや部族の人たちと一緒に、
地球へ感謝を述べたり、人々の幸福を願う機会があり、その時に学んだものだ。

その方法をざっくり言えば、自分自身や苦しみを受け入れ、
感謝や愛の光を当て、自分の外側、家族、自然、そして地球、
宇宙に向かって光(幸せ)を増幅させていくという方法で(または光や宇宙のエネルギーと繋がる)、スピリチュアル的な世界では非常によく行われている方法だと思う。

その方法は、確かに自分の中に光が溢れて心が温かくなり、
一体感を覚えるので大好きだったのだけれど、
子育てが始まってからは、
リアルな現実に戻った時に調和のとり方が難しく、
愛だ調和だとわかっているのに、
子育てで手一杯、
イライラして調和が取れていない自分に罪悪感を感じるという悪循環に陥ってしまい、
結果自分を苦しめることになってしまったので、
しばらく距離を置いていた。
(実際のところ、親になるという世界は、今まで見ていた景色がひっくり返るほどの衝撃かつ未体験ゾーンだった)

比べて、禅の瞑想とは、
瞑想で何かを体得するとか、
悟りをひらくとか、許したり、祈ったりするといった
瞑想の「目的」が無い。

目的がないのに座る。

ほら、もうここから禅問答が始まっているといっても過言ではないけれども、
文字通り、
目的もなくただただ座り、
鼻から息を吸って、口から息を吐く。
もちろん、言葉によるガイドもないし、
心が穏やかになるような素敵な音楽もかけない。

その行為には
愛も、感謝も、祈りも捧げないし、悟りも光明も得ない。


ただ呼吸をし、
ただ座る。

以上。

ちなみに、禅では、悟りや光明を得た、神に会ったとか、
あるいは全能感やメッセージが降りてきたという状態を「魔境」と呼び、
中途半端に覚醒した人が陥る精神のバランスの崩れた状態だと一喝している。

私は一時期、魔境をさまよっていたという自覚がある。
その魔境で迷子になったことがあるからこそ、禅の教えを読んだときには、
久しぶりに体に電気が走った。

で、ただ座ることで、何が起きるのかというと、
私の体験では、
ただひたすらに雑念が湧き上がっては消え、
そのうち足が痛いだ体が痛いだと、体も騒ぎ出す。
そういったことにも、できればなるべくとらわれずに座り続ける。


さらにそのずっと後に、雑念の奥深くから、本当の欲求がちょっと顔を出す。
この欲求は、日頃雑念や、固定観念、プライド、愛や感謝というベールに混じって、
自分でもなかなか気づくことができない。

それを、ぱっと掴みに行く。

目的を持つな、という禅の教えには背くけれど、
私は、その欲求の正体を掴む訓練をしているような感じがする。

それと、雑念というのもなかなか素晴らしいもので、
私が今、この瞬間感じていることを、浮き上がらしてくれるので、
文字通り、今ここ、この瞬間の自分とつながることができる。
足が痛いだなんだ、体の声も、まさにいまここなのだ。

前に行っていた祈りの瞑想は、
宇宙のエネルギーを浴びるイメージか、もしくは
内側から外に向かってエネルギーを放出しているようなイメージだった。
しかし、禅の瞑想はひたすらに内側にある。

ひたすらに自分とつながると、
座禅が終わって日常に戻っても、不思議なことに外側に影響されることが少なくなる。
瞑想後に自分と全く異なる波動の人にあっても、何も感じない。
私が禅的瞑想が「超絶グラウンディングである」と呼ぶ所以もこんなところにある。

ちなみに、仏教でも、
最初に述べた祈りの瞑想に似ている「慈悲の瞑想」と呼ばれる方法もあるそうだ。

もちろんこの方法も、心身を健康に、自分の状況に感謝し、
自分や周りの人達を幸せにする素晴らしい方法だと思う。

今の私には禅的瞑想が心と体の健康に役立っているけれど、
そのなかに慈悲の瞑想的な瞑想を取り入れることもある。

私もまだ入り口に入ったばかりで、
まだまだ何かを語れるほどではないけれど、
禅のシンプルさと潔さは、
情報が溢れている今の世の中から、
自分の核を知り、強くするための素晴らしい方法だなと思います。

もしこれ読んでピンときたら、とりあえずまずは1日10分、目を閉じてただ座る。

を試してみてくださいな〜♪