18年前の夜のこと。
うちの前の道路に、小さな塊がポツンと落ちていた。
ネズミかと思ってよくみたら、耳の大きな死にかけの子猫だった。
周りをみてみると、子育て中の母猫がいた。
死にかけのその子のことは、目に入らないのか、見捨てたようだった。
片手の手のひらよりも小さい子猫は、かろうじてまだ息をしていた。
あれから18年。
私が一緒に暮らしたのは3年ほどで、あとの15年は母と暮らしていた。
臆病で、ちっぽけで、目の大きな、かわいい子だった。
18年も、よく生きた。
母は言った。
赤ちゃんは産まれると、ふぎゃあー!と産声をあげる。
産まれることは、息を吸い、おもいっきり吐くことなのだ。
しかし、命の最期が近づくと、取り入れる(吸う)ことはできても、出す(吐く)回数が減ってくる。
おしっこもうんちもでなくなる。
毛玉を吐き出したくても吐き出せなくなる。
最期を完璧に全うするだけのエネルギーをわずかに補給して、排出することなく枯れていく。
それは、とても美しい姿だと。
だから、息を吐くこと、排泄すること、泣いたり笑ったり感情を出すこと、話すこと、
自分を出す=表現すること、
それらの、はきだすという行為は、生きている証なのだと。
今でも鮮明に、あの夜のことを覚えているのに、あれから18年も経ってしまったなんて信じられない。
その間に、
私にも子どもができ、新しい命が産まれた。
それはつまり、別れもあるのだ。
命は循環している。
18年なんてあっというま。
そんなメッセージを、あの子は私に遺していった。
これからも、私なりに人生を表現していきたいと思う。
吸う(吸収する)ことに偏りがちな現代だけど、みなさまも、どんどん表現していってね。
いっぱい生きよう!
LIVE, LAUGH, LOVE LIFE!
R.I.P みゅーちゃん。
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