少し前までのホリデーモードが嘘のように、通常営業が始まりました2017年!
奇数の年ってなんだかワクワクするのだよね。
しませんか?
今に始まったことでもないんだけど、去年は”消費”し過ぎてしまったなと反省。
ここでいう消費は、お買い物意味ではなくて。
今や、youtubeなどで音楽やら動画やら無限にアクセスできてしまうので、
気に入ったものに深く入り込んだり、味わったりってのが減ってきてませんか?
音楽って、記憶と繋がってますよね。
例えば、ハタチで失恋した時は、椎名林檎ヘビロテだったなあとか。
スノーボードにハマってた時は、ダンスホールレゲエが好きだったなあとか。
だけど最近は、気分で選んで、アーティストの名前も知らず、サラーっと聞いて終わり。
で、ハイ、また違う人ー。
記憶ともさほど繋がらない。
こんなの、No music, No lifeじゃない!と声を大にしていいたい。
もちろん、音楽に限らず、アートや、情報も。
すぐにネットで見れちゃうから、5感を使わなくても、味わった気になっちゃう。
理解した気になっちゃう。
いやいや、違う。これは味わってるのではなくて、消費してるんだよね。
消費、疲れる!!
消費って疲れるんだよー。
選択肢がありすぎるというのは果たして幸せなことかわからない。
たとえ素晴らしいものでも膨大だと、心がすり減る。
知らず知らずに毒まんじゅうを食べさせられてる時もあるし。(訳:消化できない話/情報を食わされるというたとえ)
しかも、厄介なことにaddictiveなんだなあ。
シュタイナー教育では、子供に物質面での選択肢を与えないという考えがあります。
”朝ごはんは、目玉焼きがいい?スクランブルエッグ?オレンジジュース?それとも牛乳?”
”おもちゃは何が欲しい?色は?サイズは?”
この、子どもへの質問攻撃は、子供を不安にさせると言われています。
天使の世界からやってきた小さな子供に、膨大な選択肢を投げかけるって、想像しただけで恐怖と混乱ですよね。
現代の大人も一緒だなと思うんだ。
しかも、自分の周りに素敵なことをしている人がいるのに、その存在には気付かず、
地球の裏側にいる人や、遠くで起きていることに心を向け過ぎて、混乱しているという。
森を見て樹を見ずだなあ。って。
森は樹々によって成り立っているというのに。
私たち一人一人の存在は"樹"だというのに。
近くにいる人、コト、community
誰かが創りあげたアート、音楽、作品
目に留まったことは、大事にして、しっかり味わおう。
そうしたらやがて、樹をみて、森も見る。
そういう風に、なれるかな。