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2020年9月1日火曜日

ハンター・ガール

娘:「鹿肉って美味しいの?」

ニナ:「すっごく美味しいよ、そしてすっごく悲しい」

娘:「鹿を殺した後、呪われないように塩をたくさん撒くの?」

ニナ:「うーん、塩を撒く時もあるけど、私のお父さんは必ず食べる時にお花を添えるの。

    それで、命をどうもありがとうってみんなで手を合わせてから食べるの」


娘の一番仲の良いお友達のニナがお泊まりにきた。
彼女はメキシコ人で3人姉妹の末っ子。

彼女のお父さんは狩りをするので、時たま姉妹みんなで森に入ることがあるそうだ。
一番上のお姉ちゃんがお父さんの右腕で、血抜きをしたり皮をはいだりするらしい。
ニナは、周りの掃除やお姉ちゃんの手伝いをする。

ハンターと聞くと、Tatooの入ったごっつい山男を想像するかもしれないけれど、
彼女のお父さんは小柄で、謙虚で、とても優しい人。

しかも、このご時世、家にインターネットをひいていない。
携帯電話もフリップフォン(ガラケー)
もちろんテレビもない。ネットフリックスもディズニーチャンネルとも無縁だ。
その代わりにしょっちゅうお父さんと一緒にハイキングやキャンプをしている。

この3姉妹、全員感心するほどいい子で
私がニナを送りに届けにいくと、親が仕事でいない時は
お姉ちゃんが出てきて「ニナを預かってくれてどうもありがとう」
と必ず言いにきてくれる。

言い忘れた。お姉ちゃんといっても10歳の女の子だ。

ニナもうちでご飯を食べたりすると
「お手伝いすることありますか?」と何度も聞いてくれるのだが、
ついには「私、洗い物しようか?」とまで言ってきたから驚いた。

これも、言わされているのではなく、彼女にとってそれが当たり前的な自然な言い方なのだ。

他人の家の懐事情を推し測るのは失礼なのだけれど、
彼らは物価と不動産の高騰によって、リッチ化したスコーミッシュでは珍しく
2ベッドルームのスイート(アパート)に暮らし、
あまり持ち物を持たない質素な生活をしている人たちでもある。

比べて私は今、縁あって新築の大きな家に住んでいる。
iPadなどのデバイスもあるし、家族全員がそれぞれデバイスに向き合って会話がない時間もそこそこある。その上、家族全員分のそこそこ高価な自転車や遊び道具もある。

つまり、必要な物、いや必要以上の物を持っていながらも、
特に今年の夏は、引越しのせいだと思いたいが、結局出番も少なかった。

それで、冒頭の会話に話は戻るのだけど、
先日お泊まりに来たニナと娘の会話を聞いていて、
なんか「私、生きる上で大切なこと忘れている気がする」とドキッとした。

「あなたは本当に満たされているの?今のこの瞬間を生きているの?」

と、聞かれたような気がしたのだ。

その後、その思いがさらに強くなる出来事があった。

お泊まりの朝を迎えてニナをお家に送りにいった時に、家族全員が出迎えてくれた。
一通り挨拶をすると、お姉ちゃん、お父さん、おばさんやいとこまでもが(たまたま居合わせたのだけれど)みんなで「ニナ!!会いたかったよ!!」と言って代わる代わるハグをする。

みんなキラキラの目をして
「ニナ戻ってきたー!大好きだよーーー!!!」と伝える。

その中でどういうわけか少し不機嫌そうだった、いとこのお兄ちゃんに、
ニナが「どうしたの?何かあったの?とりあえずハグしよう」と優しい微笑みをかける。

その光景を見ていて、なんだか涙が出そうになった。

「私は家族との毎日に、ここまで大きな愛が溢れているだろうか?」

人間が魂に還る時「経験と感動」しか持っていけないという。
社会的な地位やお金や物は持ってはいけない。(「金持ちが天国に行くには、ラクダが針の穴を通るよりも難しい」という言葉があるくらいだ。)

私は天国に持ってける「経験と感動」をどれだけあるだろうか?

もちろん他人と比べたって仕方がない。
私たちは私たち、ニナはニナだ。

だけれどもニナの家族には「足元を見つめる機会」を授けてもらったような気がする。

今日は罪滅ぼしの気持ちを込めて、iPadを閉じて子供達にポーカーを教えた。
洗い物をかけてポーカーで勝負!
悔しい〜!勝ったー!なんて言いながら過ごす時間。
少しだけ心が軽くなったような気がした。


森に落ちていた鹿の角



2020年5月14日木曜日

Heartmap + Creative Writing Art Night のススメ

先日スカイプのミーティングツールを使って、
「Heartmap + Creative Writing Art Night」を開催しました。









Heartmapとは、いくつかの質問に対する答えを、
「ハートの枠の中に、キーワードか短い文章で表現し、
その言葉と一緒に浮かんでくるイメージを描く」というアートワークです。

もともと、Heartmapというアイデアは、Georgia Heardというアメリカの作家さんが、
子供のインナーワーク+クリエイティブ・ライティングのツールとして考案したものです。
これが、たまたまうちの子供の学校の課題だったのですが、子供と一緒にやってみたらなかなか面白くて、
これ大人がやっても有意義だなと思い、それならば、お仲間を集って一緒にやりたい!と思い、友人知人に声をかけたというのが会を開いた経緯です。

今、私達はなかなかユニークな時代を生きていて、

特にこの5月は制限緩和に向けて、BC州が動き出しているところでもあるので、
3月の衝撃とはまた違ったメンタルを経験してる人も多いのではないかと思います。


なので、ハートマップ作って日記の1ページとして、後で見返しても面白いし、
表現アートセラピーという心理療法があるように、心の中を自分の外側に出す・アート(表現)することで、心がスッキリするという効果もあります。

以下やり方を紹介するので興味あったらぜひやってみてください。

1.まず、紙と色鉛筆を用意して、紙にハートのフレームを書きます。


2.心のなかを探る質問をして、その答えをハートの中に描きます。(いくつか抜粋します)
  ・今日感謝したこと、心がほっこりしたことは?
  ・パンデミックに入ってから観察していること(心でも、植物や物でも)

  ・心のなかで今一番大切なこと(ハートの真ん中に)
  ・今ある不安や恐怖、チャレンジは
                         など

ハートマップ作成はこんな感じで作ります。
心の中を全部お見せするのはちょっと恥ずかしいので、
以下ちょこっとだけ私のハートマップをお見せしますね。





3.今回は、クリエイティブ・ライティングも兼ねているので、
出てきた答え(キーワード)の中から、ライティングのテーマとなるトピックを選んで、そのトピックで自由にライティングします。(ポエム、ジャーナル、記事風、なんでもよし)


☆普段、日記で自分の想いを書き出している人も多いと思いますが、
クリエイティブ・ライティングは、「人に発表する」を意識しながら作成してみると面白いです。もちろん、良い悪い、上手い下手なんてありません!

そういうモードで文章を作成すると、アートスイッチが入るし、
より心と繋がれるというか、普段とは一味違って、心と頭のいい刺激になりますよ。





何人かでやると楽しいですが、一人でも、自分の日記の1ページとして思い出にも振り返りにもなるので、興味があったらぜひやってみてくださいね〜。


さて、今回の会では、私が思い入れのある各方面から5人の方が集まってくださいました!
初対面同士の方もいたのですが、点と点を線で結んでくれる人が必ず居て、

5個の点を書いたら☆になったという素敵なメンバーに☆

そして、最後に出来上がったライティングをシェアするところまで行って、
わかったことがあります。

それは、、、

参加者のみなさん、

このパンデミックで今までにない「時間」を与えられて、
その「時間」を使って、「自分」や「家族」を今まで以上に大事にすることができた。


と、大小の波を抱えながらも、この今まで出会ったことのない出来事を前向きに捉えていらっしゃったことです。
答え合わせをしたわけではないのですが、私も同じ様に感じていたので、
私も同じだ〜♡っと気持ちが温かくなりました。


会を終了した後に、みなさんそれぞれのハートマップをシェアしてくださったので、
みなさんそれぞれの想いを垣間見させてもらえたのも、とても嬉しかったです。
2時間では時間が足りなかったので、私はできたハートマップにもう少しと色や言葉を付け足して遊びたいなと思っています。


パンデミックに入って2ヶ月が過ぎ、新しい日常にも慣れてきた頃だったのも
このワークにちょうどよかったように思います。

2回目があるかどうかわかりませんので、仲間内でやってみたいと思う方がいたら
このウェブサイトを参考にしてみてください。

ああ、いい夜だった〜〜♡♡♡

2018年12月19日水曜日

道東アイヌ文化に触れる旅 ー彫刻家・藤戸幸夫の世界ー

道東の阿寒湖近くで、彫刻をしながらひっそりと暮らす男性がいる。

その男性の名は藤戸幸夫さんといって、生まれは旭川であるらしい。

ユキオさんの作品は、アイヌ紋様をベースにした木工小物。
木工小物 x アイヌというと、よくあるお土産やさんにあるものを想像してしまいがちだと思う。

だけど、ユキオさんの作品の美しさ、緻密さは、”よくあるそれなりに美しい木工品”との比ではなく、
むしろ突き抜けるほどの完成度とクオリティーである。
私は、そういう作品をマジマジと見たことがなかったので、素人の私には国宝級にすら見えてくる。

写真でもそのクオリティーは十分伝わると思うのだけど、
実際手にとってみるとやすりをかけたかのように、手触りがツルツル。
聞いてみると、やすりは一切使っておらず、木の目を読みながら彫るとそういう手触りになるとのこと。達人の技である。


ヘマタイトをはめ込んだ木箱 もちろん釘は一切使ってません。

ユキオさんは、アイヌであるらしい。
らしいというのは、ユキオさん自身は”アイヌ”という肩書きをあまり好んでいないようであった。

最近は少数民族文化がファッション的に捉えられ、
アイヌも然り、そういう取り上げ方をされる事がよくあって、特に日本古来の少数民族という面で、変に神格化されてしまうこともあるそうだ。

実際のところファッションでもなんでもなく、長い間迫害と差別を受けながら、
薪や山菜をとったりと北の厳しい自然と共に暮らしてきている側としては、
アイヌだからと表面だけすくって誇張されるのはなんだかなあという思いがあるのかもしれない。

もしくは、私たちが自分たちが和人だといちいち説明しないのと同じで、ユキオさんにもそういうものは必要ないのかもしれない。
そもそも、アイヌ語でアイヌとは人間という意味なのだ。

かくゆう、ユキオさんは、「アイヌの言葉や暮らしのことは全部取られちゃったし、わかんねー。ただ山入るときは、ありがとーって手を合わせるだけだー」というけれど、
ユキオさんの暮らしや、作品には、
どうしたってアイヌの魂が宿っていて、
それが人を魅了してやまないのだから、
私がここでユキオさんとアイヌを繋げて書くことを許してほしい。



伊勢に卸しているという手鏡




さて、前置きが長くなってしまったけど、ユキオさんの代表作「マキリ」の紹介をします。





マキリというのは、アイヌ語で「小刀」を意味し、日常の中で様々な用途に使われた道具。狩猟の時に腰に供えたり、女性が料理で使ったりもする。

このマキリが暮らしの中にあるということが、アイヌの暮らしがいかに自然と近いかを物語っている。

森によく入る人ならわかると思うけれど、
これ1本あれば万能というナイフは必須アイテムだ。

春には山で山菜をとったり、
夏には散歩道に生い茂る雑草を切ったり、
秋には木の皮をはいで繊維にしたり、
冬には仕留めておいた鹿肉を料理するときに使ったりと、
暮らしと自然が共にあるからこその大事な1本なのだ。







しかも、男性が女性に彫刻を施したものをプロポーズの際にプレゼントするそうだ。
女性はその彫刻の出来で男性の生活能力をはかり、女性は刺繍を施した衣装を男性にプレゼントするんだとか。


正直、便利で物が溢れまくっているこの世の中で、
マキリの世界観と共に、
マキリのある暮らしを想像でき、
もしくは実践している人はごく少数だと思う。
(私のブログを読んでくださる方はきっとわかってくれると思う!)


マキリでフレッシュな鹿肉を調理




そういう意味で、ユキオさんがマキリに込める思いが、
「わあ、すごい」とか「かっこい!」以上の、
深淵で広大で謙虚な”生き方”のメッセージとして伝わるようにと願ってやまない。

ちなみに、「ゴールデンカムイ 」という漫画の中でもユキオさんの作品が登場している。アイヌのこともたくさん描かれているので読んでみてくださいね。

最後に、なぜ私がここでユキオさんを紹介させて頂いているかというと、
純粋にユキオさんの作品や人柄に魅了されたからの一言に尽きる。
ただ、これだけの作品が世の中の人に広く知られることなく、
「知るひとぞ知る」で終わってしまってはいけないという熱い衝動に突き動かされたからですが、芸術品を見てこんな気持ちになったのは初めてかもしれません。


そしてこちらはお願いなのですが、
ユキオさんの作品と人柄に魅了され突き動かされ、ユキオさんのことを紹介してくれた友人のたばちゃんが、ユキオさんの作品の展示先を探しています。

もしピン!とくる場所やイベントをご存知の方、info@inokakuru-yuki.com までご連絡ください。イノカクル Yukiのウェブサイトはこちら

次の記事で、アイヌとBCの森の繋がりついて書きます。

2018年8月21日火曜日

人間は止まれないようにできている。

SquamishにあるHorse Ranch(馬牧場)で野外で行うArt play of Yogaというワークショップがあったので行ってみた。

たまたま目についたので、都合がついたから行ってみた。というわけで、どんなことをするのか全く無知のまま参加。

着いてみると、ヨガマットを持ってきているのは私だけ。笑
どうやらヨガでもないらしい。

まあいいや、この場所一度来てみたかったし、川のせせらぎ、森の香りと実際思っていた通りに素敵な場所。
それで、一体どんなことをやるのか全然わからないままワークショプが始まった。

どうやら、このワークショップは、体のパーツや感情にフォーカスして、心のままに自由に動き回る(踊るでもなく、動く)というものらしい。
マインドには黙っててもらって、心の動くままとにかく動きを止めてはいけないそうだ。

最初は手を伸ばしたり回したりしながら歩く等わかりやすい動きで始まり、そのうち肘や足の裏や乳首(!)といった体の部分にフォーカスして、そのパーツにリードしてもらってどういう風に動きたいか、動きたいように動く。
なんだか変な感じだったけど、慣れてくると、マインドが静かになって、体が動きたいまま適当に動きまくっていた。外だから、体が行きたいように何処へでも。
もちろん、全員。なんとも不思議な風景。笑

やっていて、

*人間って動かずにはいられない生き物なんだなあ。
*人間は本来は屋外で生活するようにDNAに組み込まれている気がする。
*人間は直線や四角な動きが苦手なんだなあ、あ、そういえば室内って直線ばっかりだな。

体のパーツが終わって、テーマは感情がリードする動きに変わる。

*ハッピーな感じを動きで表す。
これは簡単にできる。らららー♪っていう感じ。

*イライラしてムカついている。
もおおおお、あ”ぁ”ぁ”ぁ”!って感じ。うん、できる。

*怒っている、嫌っている。
心の中で Ass hole!! って叫びながら、動きで表現。 うん、できる。

**だけど、”悲しみ”を動きで表現しようとしたら、できなかった。
というより、動くことができなかった。

あ、悲しいって動けないことなんだ。

確かに、悲しい時って動けないかも。。。

嬉しい、楽しい、嫌い、怒っているはどれも生きる原動力になる。
でも、悲しいは、動く力にはならない。

動く気にならない、やる気が出ないっていう正体は、大枠でいうと”悲しみ”なのかもしれない。

なんだか、すごい発見をしたような気分。

ついでに、体とハートが教えてくれたのだけど、悲しみから抜け出したいときには動くしかないってことにも気づいた。

日常生活でも、ある程度沈んだ後悲しみから抜け出したい、という気持ちになった時は、ただ歩くだけでもいい、できれば大手を振って大股で歩くとか、とにかく体を動かすことが必要なんだよ、きっと。

たまには立ち止まることは必要だけど、
でもやっぱり、立ち止まる時間よりも
動いて、動いて、進化し、変化し続ける方が、人間の性にあっているのだろう。
どんどん変わっていくことの方が自然で、変わらない方が不自然なのだ。(見た目や体格も含めて)
自然の近くでね。

頭は良くも悪くも、やいややいやとウルサイけど、体とハートだけに委ねると今まで見えてこなかったことが見えてくる。

面白かったなー♪

2018年6月26日火曜日

LOST BOY

娘からリクエストされた曲がある。
思えばしょっちゅう口ずさんでいたけど、なんの歌かわからなかった。
Youtubeで探して、ああ、この曲!とすぐにわかった。
改めて歌詞も含めて聞いてたら鳥肌立ってしまった。

Ruth B - LOST BOY






"一人ぼっちで遊び相手もいなかった。
月は友達だったけど、たまに姿を隠してしまう。
ある夜ピーターパンという名前の子が現れて言った。
 ずっと一緒に遊ぼう。もう一人ぼっちじゃないよ。

それからネバーランドで迷子になっても、僕にはピーターパンがいた。
退屈になったら森で遊んで、キャプテンフックから逃げるんだ。"


この曲聴いた時、私にもピーターパンがいたなーと、ふと思い出した。

私は一人っ子で、親が仕事で忙しかったので、
学校から帰るとほとんど一人で過ごしていた。

特に夏休みなんて、究極に退屈だった。
駅の近くのガードレールに座って、カンカン鳴る踏切の音を数えたり、
自転車で電車と競争したり、
近所を歩き回って頭の中で地図を作り上げたり
公衆電話から、いるはずのない姉に電話をかけたり、
昔はいまと違って、子供がそこらへんフラフラしていても浮かない時代だったから、
文字通りひとりでフラフラしていた。

私世代の人は、似たような経験してるんじゃないかな?

あまりに退屈な上に、家庭が家庭として機能してなかったので、
私は孤独で、心の拠り所がなかったのだろう。

あるとき、自分の心の中に、別の人物を発見して、
心の中で、その人と心の中で会話をして遊ぶようになった。
”ねえ、”と問いかけると、”なあに”と答えてくれたのだ。

今思えば、それは、紛れもない私自身なのだけど、
実年齢の私より大人びていて、自信があってよく物事をわかっている風であったから、
私は、この声を心の拠り所にしていた。
私が育ったのは商店街だったはずだけど、この声と遊んでいる時は、
森の中で遊んでいるような安らぎがあった。
想像の中では、私たちは自由だった。
嫌なことや寂しさを紛らわせてれた。

もしかしたら、その人物は、未来から来た私だったのかもしれないし、守護霊だったのかもしれないし、多重人格の1人であったのかもしれない。

それか、本物のピータパンだったのかな。

大人になった今、あのピータパンにはもう会えない。

今の子供たちは忙しい。
退屈はイマジネーションを育てるから大切です。
と言われて久しいけど、これだけ退屈しないようにあらゆる物が用意されている現代で
子供を退屈にさせることの方が難しいかもしれない。
親だって、昔に比べたらかなりかまってくれる時代だし。

でも、本当に、退屈になったら、きっとピータパンは現れる。
孤独で一人ぼっちで辛いときには、きっと助けてくれる。
たとえひとときの気休めでも。

ピータパンは、子供時代のノスタルジーや子供心の象徴である一方で、
孤独とか苦境に立たされている子供たちの心の中に、
安らぎをくれる存在でもあったんだな、

そんなことを思い出した曲でした。

ああ、心に染み入るわ。皆さんもぜひ聴いてみてね。

2017年10月7日土曜日

演じるのをやめよう。 "Five Foot Twoを見て”

NetflixでLady Gagaのドキュメンタリー、"Five Foot Two"をみた。

Lady Gagaといえば、"キレたファッションでパフォーマンスをするPop界の女王。"
という印象で、今までほとんど興味がなかった。
しいていうなら、マイノリティーや女性の権利を擁護する発言をする人という印象が少しあるくらいで。

ありきたりな表現ではあるけれど、ドキュメンタリーを見てから、
今更ながらLady Gagaのファンになった。とても愛おしい人だなと思った。
彼女のファッションは、Pop業界への抵抗であり、主張であったのだと。
そして、この人は純粋に、音楽の才能に溢れた、音楽を愛する人。だなと。

このドキュメンタリーは新作アルバムJoanne製作のBack stage storyでもある。
彼女はキレたファッションを”Joanne”で、封印し、
今までのエレクトロポップとはうって変わって、曲構成もカントリーロック風になった。

歌で勝負に来たな、というのが伝わってくる。

"Joanne"では、飾りをゴテゴテつけた自分ではなく、
全てをさらけ出した歌を、純粋に聞いてほしいという心境になったそうだ。
それは、かつてないほどの恐怖、不安、孤独の作業であり、変わらぬ音楽への愛であった。(庶民の私には、ガガ様を理解するなどと、恐れ多くていえないけど)

読者の皆様には、私の稚拙な文章だと、”ふーん’”ぐらいにしか感じられないかもしれないけど、ガガ様のドキュメンタリーを見ていて、

これは実は、多くの人が、心の成長過程で通る、ライフレッスンそのもの
なんじゃないかと、思ったのだ。

それは、”演じるのやめる” というレッスン。

いい人でいたい、注目されたい、個性的でありたい、自信、保身、理想
傷つきたくない、傷つけたくない、期待を裏切りたくない、
嫌われたくない、罪悪感、、、。

これは私の話。
人生半ばに差し掛かると、
いつのまにか演じてる・演じてた自分に気づく時がくる。

家族ができ、仕事が変わり、引越しをして、
歳をとり、痩せたり太ったり見た目が変わり、
違った見方で世の中を見るようになり、
経済的な状況も変わり、世の中での経験値も上がっていく。

その中で、大切なことの優先順位の入れ替えがあり、
ちょっと前まで一番大事だった価値観が、今はかなり後退していたりする。

例えて言えばこんなこと。
私はスノーボードが大好きだった。
でも、20代で膝の手術をしてから、
滑るたびに右足が棒のように突っ張り、踏ん張れない。
やがて腰も痛くなり、左の膝も痛くなり、、と数時間の内に悪循環に陥る。
特にここ数年、体は痛く、思うように滑れないし、寒さもキツイ。

正直、もうスノーボードはいいかなと思っていたけど、
マウンテンカルチャーの色濃いこの地では、
特に冬の友人の前では、その一言を発することができなかった。
だから好きなフリを続けてた。
そんなこときっと誰も気にしないのに、呆れられるかな、
怪我を言い訳にしてるとか、ダサいとか、思われるのかな、、、って思っちゃって。

スノーボード1つにしても、数年前の自分と、今の自分は全然違うと気がついている。
なのに、話を合わせるために、お面をかぶって演じている。

この”お面をつけている人”は、私ではない。
と自分では理解しているのに、そのお面を取ることができない。

それは、結構な孤独だ。

私は基本、臆病なので、演じるのをやめるのは正直、怖い。
でも、いつも周りに合わせる生き方をしていると、Life is on hold になるのだ。

そのことに気づいてから、そういう生き方はもったいないな〜と思うようになった。
だから、少しずつ”演じるのをやめる”実践をしている。
(何を実践しているの? と聞かれたら、
一言で言えば、”周りに合わせようと無理しないこと”になるのかな。)

そして、自分をある程度ふるいにかけてみると、
その中でも、ずっと変わらない信念に近いものがいくつか残る。

それがこの先ずっと、大事にしていきたいことなんだと思う。

人生これからまだまだ進化していくのだなあー、
と、そんな変化に気づくのが楽しいこの頃です。


話は戻って、ガガ様、こんなに歌が上手かったんだあ。
彼女はPop Starである前に、素晴らしい音楽家なんだね。

何年振りでしょう、車用にCDアルバムを買ってしまったので、しばらくヘビロテします。笑
カナダツアー、いつかあったら行きたい!
皆さんもぜひ、聞いてみてくださいなー!
















2017年8月17日木曜日

熱いビジネスウーマン

今日、Ranyaに会ってきた。
お互いすれ違い続けて3ヶ月。ようやく会えた。

彼女は、Sea to Sky 版のSPUD(=Online Organic grocery shop。 Vancouverが拠点)、LOCAL GOODS COMPANY を運営しはじめたところだ。
彼女のSHOPにぜひ、ECO MOON PADを加えたいと、以前からメッセージをくれていた。

会ってみると、ナチュラルで、まっすぐで、とても熱い女性だった。

彼女が、LOCAL GOODS COMPANYを始めた経緯をかいつまんでいうと、

これからの社会にとって、地産地消を円滑にするためのシステムが必要なこと、

マスコンシューマリズムの中には、
なけなしにされた人権や、犠牲になった環境や、
犠牲になった家族で出できている商品が溢れかえっていること, 
大量販店で安価で売られているもののTrue Costは計り知れない。

お金はパワーだから、それを使う人たちに責任があること、

良い物を作っているlocal crafter/producerが生き残って、
それで生計を立てていけるようになることが大切なこと

Squamishを愛していること。
もう、ここから動く気がないこと。

などなどを、こちらの体温が高くなるような熱量で話してくれ、
私も思わず、最後に拍手してしまった。

彼女が目指し、理想とする地域社会への関わり方は、
私の中にもずっとあることで、信じ続けていることである。
ECO MOON PADを製作する原動力そのものでもある。
ただ、グラスルーツ的に活動していると、時に心が折れそうになるのも事実。

そういう時に、Ranyaのような人に出会うと、
ものすごく元気をもらって、明日への活力が湧き出してくる。

実際、Small crafter/producerにとって、
Ranyaのように、生産者と消費者を、
繋げてくれる人というのは、大変ありがたい存在である。

Ranyaとは熱いハグをして、
PembertonのFarmerが作ったという巨大なオーガニックナスを頂き、

この時代だからこそ、
直接会って話すことって大事だなあ、とmeetingの余韻を味わいながら、
清々しい気持ちで家に帰った。

家に帰ってから、この話をユウジにすると、

”本来、ビジネスとはWin-Winの関係を作り出す方法なんだよ。
 作り手も(staffも)、消費者も 地域社会もハッピーであること。
   そのために、今現時点で、ベストを尽くしている、と自分に言えること。
           それが、幸せなビジネスのあり方だと俺は思うよ” 

と言われ、また気分が高まった。

”ビジネスしてます” という言葉は、とてもポジティブな言葉だと思う。
ある意味、ARTである。
自分を表現する方法でもある。
ビジネスは本来ドライなものではなく、
自分のパッションをかけているから、business(忙しい)なんだと思う。
本気でやってる人は、まっすぐだ。

実際、私もECO MOON PADを通じて、素敵な繋がりを作らせていただいている。
家庭人としての私では成し得なかった関係が生まれ、
地域や社会との関わり方も経験させてもらっている。

ここまでくるのも(といえるほどではないけれど)決して簡単ではないし、
なんだかんだ言って、地道な努力と継続だけが、道の続きを示してくれるように思う。

などど、目を閉じながら唸っていると、聞こえてくるのだ、あの声が、、、

この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。
危ぶめば道はなし。
踏み出せばその一足が道となり、その一足が道となる。
迷わず行けよ。行けばわかるさ。

1、 2、 3、 ダーー!!

素晴らしい、アントニオ猪木!!

さて。

夕飯に、
Ranyaにもらったナスと、
友達の庭で採れたピーマンや自家製の野菜に、
Pembee産のひき肉を足して、
バンクーバーで日本人の方が作っている醤油麹を隠し味にして味噌炒めを作った。

Localの人たちの愛が詰まった食材で作る食事。贅沢だよーーー。美味しい!!


というわけで、ECO MOON PAD、間もなくRANYAの運営する、LOCAL GOOD COMPANY  に参加させてもらいます!


お礼 当初からECO MOON PADを理解し、
   サポートしてくれているBE CLEAN NATURALLY(SQUAMISH)さんと、
   TAMA ORGANIC(VANCOUVER)さん、
            HandMade Vancouverさん、
   口コミを広げてくれる友人の皆さん、ワークショップに参加してくれた皆さん、
   気持ちがグラグラになるといつも前向きなアドバイスをくれるわが夫

   いつもありがとうございます。これからも頑張ります!

2016年2月27日土曜日

HeでもSheでもなく。

日本のニュースでたびたび、イマドキの若い男の子は”草食化”のみならず”絶食化”してきているなんて話題を耳にする。

トランスジェンダーという言葉も目新しいものではなくなり、同性愛者の結婚が合法化されているBCでは、同性愛者のカップルもそこそこ身近にいるので、まだマイノリティーではあるけれども普通のこととして浸透しつつある。

そして今日、カナディアンの友人と話していて感動したことがあった。
彼女の高校生の息子によると、彼らの世代には、精神的に、トランスジェンダーもしくは男と女そのどちらにも属さないニュータイプの人がいて、そのどこにも属さないニュータイプな人達を、HeでもSheでもなく、"Ze"と呼ぶらしい。

これを聞いたとき、時代は進化している!とびっくりしたと同時に、ナイスランディング!と感心してしまった。

英語と日本語はさほどでもないけれど、ラテン語は、だれが決めたのかしらないけど、こと細かに女性名詞、男性名詞がある。わたしはそもそも、この分類がきにくわない。
そもそも、男性にも女性にも、心の内側に、太陽と月もあれば、花と剣がありるのだから、一方的に女はこう、男はこう、と決めつけらるのは違和感を感じる。

女性、男性、その両方もしくは反対、もしくは中性。

"Ze"があってもいいじゃない!

私の世代1970年後半に生まれた人達の中に、インディゴチルドレンと呼ばれる人達がいる。
インディゴのあとは、かなり数は少ないようだけどクリスタルチルドレン、最近はレインボーチルドレンがいるそうだ。

インディゴチルドレンは、インディゴ色の魂を持っていて、新しい社会を作るという使命のもと、古い体制と戦う人達とされている。
その後、インディゴチルドレンが築いた社会に、平和と調和をもたらすのがクリスタルチルドレン、さらに、すでに覚醒した魂をもっている平和の使者がレインボーチルドレンというそうだ。









私の世代&少し上の人達は、確かに社会と戦ってきたと思う。
搾取するシステムからFair Trade, grass roots運動をサポートし、エコという言葉で環境問題を声高に訴え、暴力による解決をよしとしなかった。(かっこよく言えば)
その下地のうえで生きているのが、ゆとり世代と言われる人達だ。
ゆとり教育だけではなくて、世代的に平和を好むおっとりした人達がいてもおかしくないと思うし、さらには'Ze"が生まれてもおかしくない。

わたしはこの国ではマイノリティーだから、様々な背景のマイノリティーの人達を知りたいし、受け入れられる心でいたいと思う。

太陽とるなを通じて、これからどんな世界になっていくのか、私も学ばせてもらおう。

あたまと心を柔らかく。














2016年1月3日日曜日

神がかりな年始。

あけましておめでとうございます 2016

今年の元旦は、神主さんが泊まりにきてくれた年始でございました。

もちろん、通常年末年始はとても忙しいとのことで、元旦に神社以外のところにいるなんて16年ぶりだそうで、そんなレアなタイミングで我が家にきてくれてありがたい!
神社好きな私としては、いっぱい話を聞きたかったのだけど、話もそこそこに子供達としりとりをして終わってしまった〜 笑

近年、私自身カナダナイズドされていて、クリスマスには気合いが入るのだけど、元旦はさらっと過ごすようになってきていたので、元旦に日本の神様に想いを馳せることができてとっても気持ちよかった。 
日本の神様と繋がれたような気がして、背筋がシャンとのびました。








太陽とるなも、彼女にあって、”かみさまってほんとうにいるんだねえ。かみさまとお話できるなんてすごいねえ”と興味津々でした。

私の勝手な解釈かもしれないけれど、かみさまは、

”太陽であり、月であり、森であり、海であり、宇宙であり、森羅万物、この地球を生かし続けてくれている大いなる存在”

と理解しています。

実際、神社には原生林が残されていて、
自然の持つエネルギーと神職の方々のエネルギーがあわさって、
濃い氣(靈氣)に満ちている。
ヒラメキやシンクロも起こりやすい。

カナダには神道のような文化はないけれど、ファーストネーションの文化がそれに近いものがある。
彼らの教えでも、万物にスピリットが宿っていて、野生動物との調和された自然界に、人間も共存している存在だと考えています。

そういう意味合いで、スコーミッシュのThe Chief rockや、Shannon Fallsは、ここのファーストネーションの人達にはスピリチュアルな場所だと言われています。
わたしにとっても、The cheif rockやShannon Fallsはスコーミッシュの神社であり、聖地です。

車にのって、買い物に行き、人にあい、仕事に行って、、、という暮らしをしていると、あたかも人間がこの世界を支配しているように錯覚してしまうけれど、
人間は、本来、太陽や、水や、森や、海に生かされている、小さな存在であり、多種多様な生命とこの大地をシェアしているのですよね。
人間は、美味しい空気、美味しい水、おいしい食物がなかったら生きていけないんだもの。

大地と意識をあわせていると、シンクロがおこり、自分に必要なメッセージが飛び込んできます。
でも、意識がチューニングされてないと受け取れないのよ、このメッセージ。
最近、受け取ってなかったなあ〜 今一度、iPadじゃなくて、地球にTune in!だなっ

ということを改めて感じられた元旦でした。

その翌朝、鏡をのぞいたら、私の顔のなかに亡くなった父がいました。
”うわっ、お父さん!”っと思ってしばらくのぞいていたら、私の顔に戻りました。
当然、親子なのだから似ているのだけど、普段自分の顔に父を意識してないので不思議な感覚でした。
正月だから、父からの挨拶だったのでしょうね。
その内容を書こうと思ったのだけど、指が進まない。
なんだか父がいやがっているようだから私の中だけにしまっておこう 笑

そして、今日の午後は、飛来してくる白頭鷲を見に行きました。
青空と雪が気持ちよかった〜!
毎年のことだけれど、白頭鷲がやってくると、今年も帰ってきたんだなあってほっとする。 そして、鷲がどんな旅をしてきたのかなあと想像すると、ワクワクする。

当たり前だと思ってることに、スポットライトあてて意識を落とし込んでいくと、かみさま(Sprit)の存在や、自然界の調和の見事さに今一度気づけますね。

ゴロウ君、けいこちゃん、末広がりなメッセージを届けてくれてありがとう。
おかげで、心が豊かな、素敵な年始になりました。

去年あたりから、さよならしたい心の荷物や執着は、どんどん手放した方がいいそうです。
今年も、みなさんの内側が気持ちのいい氣が満ちあふれ、ポジティブな一年になることを祈っています。
今年も、地球、自然、そして自分自身を大事に、愛していきましょう♥️

明日は神社参拝にいってきます。

いつもUniearthのColor Palette読んでくださってありがとうございます。
鎌田家も今年もよろしくお願いします。



雪をみるとはしゃぐ、元気キッズでした。














2015年12月23日水曜日

あげられなかったコイン。

Save on foodの前で、晴れの日も、雨の日も、夏も、冬も、物乞いをしている男がいた。

汚れたダウンジャケットを羽織い、ボロボロのリュックを背負って、キャップ帽を募金箱代わりにコインを恵んでもらうのをずっと待っている男。

私の記憶が正しければ、私がスコーミッシュに越してきたときから彼はそこにいた気がする。

BC coastには、物乞い(beggar)がとても多い。
見るからにホームレスという人だけではなく、働けそうな若い人もかなりいる。
身なりも最低限というわけでもない。
"Travel, broken, hungry"段ボールに書かれた文字を見るたび、人に小銭をせびるより、どうして働く努力をしないのかな。と思ってしまう。

以前、そういう若い人に果物をあげたことがあった。
そしたら、お礼の代わりに、世の中の愚痴と嫌みをいわれた。
なんなんだ。この気持ち。あげなきゃよかった。あなたはただLazyなだけじゃないか。

それから、私はbeggarの人達を見なくなった。

ただ、Save on Foodの前にいる彼は、少し違った。
いつも、キャップ帽を手に持ち、ただ立っているだけ。
屋根があるのに、あえて雨に打たれながら、青い瞳でまっすぐ前だけをみている。
はじめはパフォーマンスかと思った。
でも、何度もその光景をみているうちに、それは彼の謙虚さの現れなのだと気がついた。
彼の目は、優しい感じがした。

でも、私は彼に小銭や食べ物をついぞあげなかった。
彼になら、、、とあげようと思ったことはたくさんあったのに。
わたしは、彼よりも”持っている”のに。

そして、今日、Facebookで彼が亡くなったことを知った。

”彼は、ドラックの問題があった。メンタルに問題があった。
でも彼は優しいハートをもった穏やかな青年だった。
彼は、私たちと同じように誰かの息子であり、兄弟であり、友人であり、なによりこのコミュニティーの一員だった。
わたしたちは出会う全ての人に、優しい目をむけ、できる範囲で手を差し伸べるべきであろう。”

私が小銭や食べ物を少しばかりあげたところで何が変わったわけではなかっただろう。
あげたところで、満たされたのは彼の空腹ではなく、わたしの自尊心だっただろう。

たとえ、そうだとしても、私は後悔している。

Rest in peace James  
Save on foodの前よりも、安らかな場所にいることでしょう。